いまさらながらYU-NOを見て衝撃を受けた話
久しぶりに記事を書いたが全くロボットとは関係ない。 また私はゲーム開発者でもないので、ひとりのプレイヤーの戯言と思って聞いてほしい。
ことのはじまり
急に深夜に筆を取り始めてしまったが、アニメリメイクされたYU-NOを見た。 きっかけは16bitセンセーション内で語られる当時の衝撃から。 この漫画の中では今なお色あせない数々の名作について語られるが、96年編あたりは当時の衝撃の強さがうかがえる。
お盆休みのほとんどを惰眠を貪ることに費やしていたが、久々に時間が取れたこともあり、YU-NOがどれほどすごかったのかを体験しようと見始めた。 結論から言えば良作だった。記憶を消してPC98版をプレイしたほうがいいと思うほどに衝撃だった。
私はゲームといってもインディーゲームやレトロゲームが好きである。 ゲームには体験を求めており、シナリオとゲームシステムが両立した上で、この上ない没入感を得られるゲームが好きである。
これとは対象的に、現代の3DCGマシマシなアクションゲームはあまりプレイしない。 これには体質的な問題から3Dゲームが酔いやすいためという悲しい事情もある。 ノベルゲームも好きなのだが、個人的には戦略系など時間に余裕がありつつ考えさせるゲームが一番のお気に入りである。
YU-NO の何がすごかったのか?
アニメだけ見て知ったかぶりをしてしまうが、このゲームはシナリオとゲームシステムのバランスが巧妙だったと感じる。 時系列をプレイヤーに見せた上で逆行・遷移するシステムは、当時で言えばセガサターンの「街 〜運命の交差点〜」やかまいたちシリーズ、他にも「428 〜封鎖された渋谷で〜」やSIRENなど枚挙にいとまがない。
そしてこれらの作品に共通して言えることは、全体の世界観が時系列を遷移するゲームシステムと非常によくマッチしている点である。 今回のYU-NOであればリフレクターデバイスとA.D.M.S.というゲームシステムが、ユーザ視点からゲーム世界へのインタラクションをよく実現している。 その上で当時の価値観ギリギリを行くようなシナリオだったのだから、同時代人たちが衝撃を受けたことは想像に難くない。
バブルに思い馳せ
よく私はもう一度生まれ変われたなら、バブル期をぜひとも体験したいと思っている。 83年ファミコンの発売、数々の家庭用コンピュータ、そして崩壊とともに生まれた豊作の90年代。 なにぶんアングラな世界のために当時の人々の感想があまり残っていない。
だからこそ16bitセンセーションはエロゲー史料であると思うし、これらを語り継いでくれる50・60代の技術オタクおじさんたちは本当に私にとっては貴重である。
そして幸いなことにゲームは残っている。 YU-NOはPC98版が最近になってDL販売もされている。
天才はいる
もはやYU-NOから逸れてしまうのだが、「ゲームとは体験」を感じさせてくれたゲームを少し挙げさせてほしい。 これらには統一的な法則があるように私は思っており、この記事を書きながらTwitterことXを眺めていると、同様の発言をしている人も見かけられた。
私がレトロゲームを好きな要因の1つに、画面の遷移や解像度などの派手さがない(性能的に出せなかった)おかげで、ゲームシステムによってプレイヤーを引き付けようとする工夫が随所に散りばめられていることがある。
タイトルの元ネタはこの記事より。
伝説のオウガバトル
オウガバトルは特に衝撃を受けた作品だった。 派生作品のタクティクスオウガを踏襲したゲームはいくつか存在するが、伝説のオウガバトルライクは正直言ってないと思う。あれば教えて欲しい。
伝説のオウガバトルの凄さは、ゲーム内時間の進行とキャラクター操作を連動させた上で、カオスシステムといったパラメータの変動・反映や隠しアイテム要素の豊富さにある。 欲を言えばテキストがもう少しあると世界への気持ちの入れ具合が変わったのだが、時代的な側面もあるし続編のオウガバトル64を含めれば言うことはない。
そしてテキスト量を指摘しつつも引き付けられる要因がその世界観である。 全体が数章立てのプロットから構築されており、それぞれのゲーム作品の中でそのプロットの一部の章に関する話が描かれる。
オウガバトルの開発に携わった松野泰己氏はこのオウガバトルの世界の他に、FFタクティクスとFF12、そして噂の域を出ないがベイグラントストーリーやFF16のベースともなっているとされるイヴァリース世界という概念も構築している。 プレイする分には各作品に完結すればよいが、すべてを通すことで見える世界があり、ゲームデザイナーだからこそなせる"ある種"の妄想世界にとらわれてしまえば、すっかりこの感覚は病みつきになってしまう。
VA-11 Hall-A と Read Only Memories
この2作品は私にとってはサイバーパンク世界と言っていいと思う。 方やバーテンダーとなってカクテルを作るゲームで、方や冴えないライターが探偵ごっこをする話である。 ここにCyber Punkを加えてもいいと思う。
これらの世界で語られるのは、テクノロジーが発展した世界という共通した背景を持って、ドラえもんより遥かにリアルで生々しく人々の生活を描いている点にある。 テクノロジーに携わるものは、プレイすれば何らかの感覚を得られると思う。 まだ現実になっていない世界をゲームの中であっても具現化することは、それを受け取るプレイヤーにとってもワクワクさせられる。
Almagest Overture と シュバルツシルトシリーズ
どちらも星間戦争を模したSF戦略ゲームである。シュバルツシルトは言われてみればPC98作品もあり、YU-NOと同時代でもある。 私はAlmagestをしばらくプレイしてからシュバルツシルトを知るのだが、ゲームシステムはむしろAlmagestが踏襲したのだと気づく。
シュバルツシルトは世界観が壮大だが、シナリオは割りと一本道のものが多い。ただその分キャラクターの作り込みがそれなりになされている。
Almagestはシナリオの順番が特定でなく毎回違ったストーリー展開となる。マルチエンディングのため攻略の歯ごたえも高い。
すごいと思うのは未だに旧2chのような掲示板が動いていることである。 ゲームシステムそのものは今の作品からすると多少見劣りするが、世界観とそれを含めたゲームデザインのトータルで見ると本当に素晴らしい。
何が我々を体験をさせるのか
「リアリティとは情報量である」とは、やはり同じ時期の95年に公開となった「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」の監督である押井守氏の言葉であったと記憶しているが、このアニメが細部への書き込みにこだわったように1つ1つの要素に至るまで統一した世界観・設定のもとに決定されていると、そこから受け取った側への反芻・咀嚼・尾を引く感覚もまたものすごく大きなものになる。
そしてゲームだからこそできることがある。現実にはなし得ないこともゲームだからこそ実現できる要素がある。 例えばロード・セーブですらそういう機能だと思うし、シミュレーションも仮想的に体験するための機能である。
これらがその世界と一体になる感覚、寝ても覚めてもその"妄想世界"を感じさせてしまうところに体験がある。 この"妄想世界"をシナリオだけの情報で再現できるものが小説であり、視野をもって再現するものがアニメ・映画・ドラマであり、臨場感をもって伝えるものが演劇であり、五感に訴えられるものがゲームである。
ゲームならではの表現については多々あるため深く述べないが、ゲーム表現の工夫はプレイヤーに現実世界を体感させる装置であり、同時に介入させる装置でもある。 ところが近年は体感に重きがおかれてしまい、介入の要素が薄いと感じることがある。 そしてシナリオまで軽視されるとここに"妄想世界"への没入は成り立たない。
今あらためて発売から30年経とうとしているYU-NOから、ゲーム本来の楽しさを教えてもらった気がする。
さいごに
YU-NOと同時代のゲームを中心にコラム的な話を突発的に書いた。 それはそれとしてYU-NOはよかった。視聴が止まらなかった。
天才はいる。ゲームデザイナー・剣乃ゆきひろ氏は惜しくも故人であるが、彼の作った世界、伝えたかったモノは半永久的に生きている。
一生ですべてのゲームはプレイできない。だからこそ味わい深いゲームをプレイしたいと思っている。 次は痕か家族計画か。まあ今も中途半端に進めているゲームが複数あるのだが。。。